脱出アドベンチャーシリーズの1~5作目と日本神話との関連性の検討

0.はじめに

 『脱出アドベンチャーシリーズ』とは、インテンスにより開発されアークシステムワークスによって発売されたニンテンドー3DS用のゲームソフトのシリーズである。シリーズは全8作で構成される。1~5作目で物語は一区切りし、6~8作目では新しい物語が描かれる。本稿では1~5作目について、古事記日本書紀で記されている日本神話との関連性を検討した。本稿中で作品という表現をした際は1~5作目を、作中という表現をした際は1~5作目の作中を指し、6~8作目については一切言及していないことに留意されたい。

 また、筆者は古事記日本書紀に明るくなく、本稿は素人がインターネット検索だけを頼って書かれたものである。信用に足らない文章であることを念頭においてもらいたい。

 

1.《御三家》

 《御三家》は、作中に出てくる用語で特定の三家の総称である。《始まりの御三家》と呼ばれることもある。この三家は絶大な力を持ち、国や世界経済、裏社会を統べ、世界を裏で動かしている。須佐見秀ノ介は《御三家》の一つである須佐見家の血を引く人間である。秀ノ介の妹であるユリカも同じく須佐見家の人間である。月夜乃鏡護(3作目ではキョウ)は御三家の一つである月夜乃家の当主であり、いがみ合っていた《御三家》の関係取り持った。

 作中で《御三家》は須佐見家と月夜乃家については描写があり、特に須佐見家については作品全体を通して描かれている。

 須佐見家はスサノオノミコト(スサノオ)、月夜乃家はツクヨミノミコト(ツクヨミ)がモチーフになっていると考えられる。スサノオツクヨミは、日本神話に登場する三貴子(みはしらのうずのみこ)と呼ばれる三柱の神のうちの二柱にあたり、残る一柱はアマテラスオオミカミ(アマテラス)である。しかし、アマテラスに対応する一族に関する描写は作中に一切存在せず、その名前すら記されていない。これについては、《御三家》が三貴子の子孫であると仮定すれば説明をすることができる。

 伝承上、アマテラスの子孫は実在し、それは天皇家である。初代天皇である神武天皇はアマテラスの来孫(5世孫)であり、アマテラスの血は神武天皇から男系で今上天皇まで続いている。ゲームの中の話とはいえ、天皇家が世界を裏で動かしているという内容を直接描写するのを避けるのはそう不自然なことではないのではないかと思われる。

 須佐見家がスサノオの子孫、月夜乃家がツクヨミの子孫であるという描写は作中に存在せず、この仮説を裏付ける決定的な証拠はない。しかし現状この仮説は、《御三家》が何者で、なぜ残りの一家が作中で触れられないかということを最も自然に説明できる仮説である。

 

2.日本神話におけるツクヨミ

 日本神話には古事記日本書紀をはじめにいくつかの文献に記されているが、文献により内容に差異がある。前述したように、作中の《御三家》はスサノオツクヨミに当たる二家に焦点が当たるが、実際の日本神話ではアマテラスとスサノオに焦点が当たる。対してツクヨミに関する話はほとんどなく、古事記においては誕生の後に活躍の場はない。日本書紀においては食物の起源に関わっているくらいである。ツクヨミはアマテラスから命を受けてウケモチノカミ(ウケモチ)の元へ赴く。そこでウケモチは飯や魚などを口から出したので、ツクヨミは怒り、ウケモチを剣で刺し殺してしまった。ウケモチの死体からは牛馬や粟、稲などが生まれ、これが食物の起源となった。古事記にも似たような話があるが、こちらはオオゲツヒメノカミ(オオゲツヒメ)をスサノオが殺し、そのオオゲツヒメの死体から食物が生まれたという話になっており、ツクヨミの出番ではない。

 古事記日本書紀においてツクヨミ誕生後に活躍の場がないのであれば、誕生時について見てみるのはどうだろうか。ツクヨミを含めた三貴子の誕生についても文献により内容が異なるが、どちらもイザナギノミコト(イザナギ)とその妻であるイザナミノミコト(イザナミ)の二柱が日本列島を作った『国産み』の後、様々な神々を生んだ『神産み』と呼ばれる場面にて描かれている。古事記では、イザナミが神々を産んでいたが火の神であるヒノカグツチノカミ(カグツチ)を出産した際にイザナミは火傷で死ぬ。イザナミを失ったイザナギは怒ってカグツチを殺し、イザナミに会うために死者の国である黄泉國(よもつくに)に向かう。イザナギイザナミと再会を果たすが、見るなと言われていたイザナミの変わり果てた姿を覗き見たイザナギは逃げ出した。黄泉國を離れたイザナギは黄泉國での穢れを落とすために禊(みそぎ)を行った。この禊の際、イザナギの左目からアマテラス、右目からツクヨミ、鼻からスサノオが生まれたとされる。一方、日本書紀の第五段の本文ではイザナギイザナミが国産みの後に何柱かの神を産む。そして日神(ひのかみ)であるオオヒルメノムチノカミ(オオヒルメノムチ、アマテラスと同じ)と月神(つきのかみ、ツクヨミと同じ)を産んだ後、ヒルコノカミ(ヒルコ)を産む。しかし、ヒルコは三歳になっても脚が立たず、天磐櫲樟船(あめのいはくすふね)という船に乗せられ捨てられ、その後にスサノオを産んだとある。また、第五段の一書(一)では、イザナギが、左手で白銅鏡(ますみのかがみ)を持ったときにオオヒルメノムチが成り出で、右手で白銅鏡を持ったときにツクユミノミコト(ツクユミ、ツクヨミと同じ)が成り出で、また首を回して振り返ったときにスサノオが成り出でたとある。このことから、作中において月夜乃が白銅鏡を持っていることは、日本書紀の第五段の一書(一)が元になっているとなっているだろうと言える。

 

3.他の名家について

 さて、本題に戻ろう。ソウタの家であり須佐見家の分家である滝津家についてはどうだろうか。これは、タギツヒメノミコト(タギツヒメ)がモチーフとなっていると考えられる。タギツヒメは、アマテラスとスサノオの誓約(うけい)によって生まれた神であり、形式的にスサノオ(とアマテラス)の子とされる女神である。

 アマテラスとスサノオの誓約(うけい)は文献により内容が異なり、日本書紀の中にも諸説書かれている。共通しているのはスサノオが黄泉に行く前にアマテラスの元に行くが、アマテラスはスサノオが悪い心を抱いていると思い、迎え撃つつもりで待ち構えた。スサノオが潔白かどうかはっきりさせることにした。それは神を産み、その神が男神か女神かで決めるというものだった。アマテラスは剣を噛み砕いて息を吹いて神を生み出し、スサノオは勾玉を噛み砕いて息を吹いて神を生み出した。この時に剣から生まれた宗像三女神という三柱の女神のうちの一柱がタギツヒメである。ただ、日本書紀の第六段一書(二)においては剣と勾玉が逆であり、タギツヒメは勾玉から生まれた三柱の女神のうちの一柱である。

 滝津家が須佐見家からいつ頃分家したかが明記されていないが、分家という表現をされていることからタギツヒメの直系の家系というわけではなく、ただタギツヒメがモチーフになっているのではないだろうか。

 また、作中で須佐見との繋がりがある名家であると明言されている紫ノ宮家についてだが、筆者は紫ノ宮家が日本神話における何が元になっているかは検討できかねている。御三家とは別の理由で名家であり、権力を持っているから結果的に須佐見とつながりがあるのかもしれない。そもそも紫ノ宮家は日本神話をモチーフにしているのか、もしそうなら具体的に何を元にしているのかは、今後の課題としたい。

 

4.神と封印

 次に、ヨミは何者かということについて検討したい。作中にて《黄泉の封印》とあることから、ヨミという名は黄泉が由来なのではないだろうか。黄泉は死者の国であり、先ほど『神産み』について述べた際に出てきた黄泉國がそれである。

 日本書紀では、イザナギイザナミによって三貴子が生まれ、その後も様々な神が生まれる。しかし、古事記と同様に火の神であるカグツチを産む際に火傷を負い、イザナミは死ぬ。そこからは文献により細かい箇所に差異はあるものの、大まかな流れは古事記日本書紀も同じである。イザナギカグツチを殺し、イザナギを会うために死者の国に向かう。しかし、結局のところイザナギは逃げ出すことになり、黄泉の穢れを落とすために禊を行う。一方、イザナミは黄泉の主宰神となり黄泉津大神(ヨモツオオカミ)とも呼ばれるようになった。このことから、ヨミはイザナミが元になっているのではないだろうか。作中にてヨミは女神であるという記述があるが、イザナミは女神であるため齟齬はない。しかし、留意すべき点が一つある、作中にてヨミは「我は全ての人の祖なる神ぞ」と発言している。日本神話において、人間と神の明確な境目は存在せず、神の子孫が人であり人の祖先は神である。イザナミとヨミにはこの点において違いが見られる。

 また、始祖神という神が作中のレポートに登場する。始祖神を文字通りに読み取ると最初の神ということになる。始祖神を日本神話で最初に誕生した神だと仮定すると、古事記によればアメノミナカヌシノカミ(アメノナカヌシ)である。しかし、アメノナカヌシは誕生して間もなく身を隠してしまい、その後の功績もない。日本書紀によれば、最初に生まれた神はクニノコトタチノミコト(クニノコトタチ)である。しかし、日本書紀でのクニノコトタチも功績はない。どちらもイザナミ三貴子との接点は一切なく、作中の始祖神には不適である。

 ではこの始祖神とは何者だろうか。作中の「御三家の始祖神、そしてその対となる女神」という記述から、始祖神はイザナギだと考えられる。イザナギ三貴子の誕生に関わっており、女神イザナミと対になる男神である。古事記でも日本書紀でも、イザナギイザナミ神世七代(かみのよななよ)と呼ばれるいくつかの神のうちの二柱である。神世七代そのものについては古事記日本書紀に違いが見られるが、イザナギイザナミはどちらの文献においても神世七代の七代目とされる二柱であり、天地開闢の時に共に生まれ対となる神々である。先ほど挙げた古事記のアメノナカヌシや日本書紀のクニノコトタチは独り神とよばれ、対になる神はおらず性別のない神であるので、やはり不適である。

 始祖神がイザナギであれば、作中の「《始祖神》は邪悪に染まった女神ヨミを封印」という記述についても説明ができる。イザナギが黄泉から逃げ出す際、イザナミに追いかけられていた。その時に、イザナミは1000人もかかって引くほどの巨岩(千引の石、古事記では千引石(チビキイワ、日本書紀では千人所引盤石(チビキノイワ)と呼ばれる)で道を塞いでしまう。結果としてイザナギイザナミは離縁(コトドワタシ)することになり、この後イザナギは禊を行い、イザナミは黄泉の神として君臨することになる。このイザナギが巨岩で道を塞いで会えなくしたことが、作中で始祖神がヨミを封印したという記述の元になっていると考えられる。しかし、日本神話ではイザナギイザナミと会えなくしたからイザナミが黄泉の神になったのであり、邪悪に染まったイザナミを封印したというわけでないところに作中と実際の日本神話との違いがある。

 また、作中にてヨミは「あの地下神殿の《石の扉》の向こうからこの世界へとやってきた」と記述されている。《石の扉》はこの千引の石のことではないだろうか。ヨミが石の扉の向こうに封印されていたのは、日本神話においてイザナミは千引の石によって黄泉に隔離されたのに対応している。さらに、この千引の石は黄泉比良坂(よもつひらさか)にあり、黄泉と葦原中国(あしはらのなかつくに、人間のいる現世で地上世界とされる)の境目にあたる場所とされる。また、黄泉は一般に地下にあるとされており、作中の地下神殿とそこにある《石の扉》は、黄泉比良坂にある千引の石と対応していると見ることができる。

 

5.日本神話との比較

 アマテラスはスサノオの姉に当たる。また、3節で述べたようにスサノオイザナミに会おうとするが、その前にアマテラスに会う。また、作中において秀ノ介はユリカに会うためにヨミに(利用される形にはなるが)近づく。このことから、以下の対比を見ることができるのではないだろうか。

 

甲:スサノオイザナミに会うために黄泉に行こうとするが、その前にアマテラス(姉)に会う

乙:秀ノ介はユリカ(姉)に会うためにヨミ(イザナミ) に近づいてしまう

 

 イザナミに会う前に姉に会うのと、姉に会うためにヨミに近づくという箇所に違いがあるため、完全な対比になっているわけではない。しかし、スサノオ=秀ノ介、アマテラス(スサノオの姉)=ユリカ(秀ノ介の姉)、イザナミ=ヨミという関係を読み取ることができるのではないだろうか。

 また、アマテラスの最も有名な話に岩戸隠れの伝説がある。アマテラスとスサノオの誓約(うけい)でスサノオが潔白を証明した後(日本書紀第七段一書では前)、スサノオが暴虐の限りを尽くす。アマテラスは怒って天岩窟(あめのいわや)に入り、岩戸を閉じて隠れてしまうという話である。この話は、《神子》であるユリカが石の棺に囚われることになる《封印の儀式》のモチーフになっている可能性がある。しかし日本神話上、この話はイザナミとは関係なく、スサノオがアマテラスを天岩窟から引きずり出すどころか、スサノオの所為でアマテラスが岩戸隠れしているので、可能性を指摘するだけにとどめておくことにする。

脱出アドベンチャー千波のイメージソングの暗号

検索エンジンです。

彦道の誕生日である今日は千波の誕生日から半年なので、千波の誕生日に公開したイメージソングに入れた暗号の解説します。

 

まずはお聞きください。

 

youtu.be

 

最後になんかいかにも暗号っぽい音がありますよね。それです。

鳴ってないところを『・』、鳴っているところを『*』で現すとこうなります。

 

・**・・*・・
・**・・・・*
・**・*・・*
・**・*・*・
・**・****
・***・*・*
・**・・・*・
・***・*・*
・**・・*・・
・**・・・・*
・****・・*
・**・****

 

これの『・』を0、『*』を1とすると

 

01100100
01100001
01101001
01101010
01101111
01110101
01100010
01110101
01100100
01100001
01111001
01101111

という二進数になります

これをバイナリ信号と見て、テキストに変換すると

 

daijoubudayo

 

 

 

 

 

 

「大丈夫だよ」

自己紹介とこのブログについて

 こんにちは。名乗るほどの者ではないCです。

 

 今まで記事を2つ書いているくせにこのブログでは何についての記事を書くか一切説明していなかったので、それについて書こうと思います。

 

1.自己紹介

 Cです。

 

2.このブログについて

 このブログは、私がサブカルチャー評論のような話をします。ですが、私はサブカル評論家ではないので、素人の文章ということを前提にお付き合いくださいませ。また、このブログに掲載する記事は自分の考えていることをまとめ、言語化・文章化する目的で書いているので、ほぼほぼ主観で書いており客観的なものではない、いわば書き散らしという事を前提に読んでいただけたらなと思います。

 

3.今後の方針

 今のところ、自主制作アニメに関する記事しか投稿していませんが、今後は自主制作アニメに関わらずいろいろなサブカルチャーについて私が思ったことや考えたことを書く予定です。単純に作品の批評や紹介といったような記事は今のところ書く予定はありません。したい作品は山ほどあるのですが、ネタバレ無しで書けるほどの文章力を持ち合わせていませんのでご容赦ください。

「自主制作アニメの醍醐味」の掘り下げ

 こんにちは。Cと名乗る不審者です。

 

 この文章はあくまで自分の考えを文章化しただけのものであって、他の考えを否定したり批判したりする意図は一切ありません。

 

0.この記事を読む前に

 この記事は前回の「自主制作アニメについて考えていること」という記事の第二項「自主制作アニメの醍醐味」を掘り下げるだけの記事です。前回の記事を読んでいない方はそちらを先に読むことをオススメします。

 

1.言葉・フレーズと印象

 あなたは、「空を飛ぶ」という言葉にどんな印象を思い浮かべますか。希望や未来、夢といったイメージでしょうか。多くの人はこれらのような前向きな印象を持つでしょう。言い換えると、「空を飛ぶ」というフレーズは基本的にポジティブな意味として捉えられるということです。

 ここで一つ、ある曲の歌詞を挙げます。

 

  空を飛ぼうなんて 悲しい話を いつまで考えているのさ

 

 中島みゆき作詞の「この空を飛べたら」という曲の冒頭の歌詞です。この歌詞を見ると、決して「空を飛ぶ」というのをポジティブなイメージではなく、叶わないもの、虚しいものといったネガティブなイメージで捉えています。悲しい話と直接的に綴っていますし、歌詞を見ればわかりますが、この「叶わないこと」を「失ったあの人が返ってくること」と結びつけて綴っています。

 自主制作アニメは「この空を飛べたら」の歌詞のように、多くの人がある言葉や概念について持っている印象とは異なる演出や展開にしやすい点があります。

 

2.自主制作アニメにおいて

 前回の記事で述べたように、自主制作アニメは制作人数が少ないので、作者が伝えたいことや描きたいことが薄まりにくい傾向があります。それゆえ、万人受けしないような演出や展開でも作者がOKサインを出せば基本的には通ることになります。

 例えば、「怪物」「モンスター」「化け物」「人外」と呼称されるような存在は、人間と対峙した際に脅威として描かれることが多いように思われます。もちろん、そのような存在と人間の友情を描いた作品も存在しますが、ゲームをはじめとして人類の敵や討伐すべき存在として描写されることが多いのではないでしょうか。「モンスターハンター」シリーズなどは名前からしてこの典型的な例でしょう(私はこの辺のゲームに疎いので実際のゲームと齟齬があれば申し訳ないです)。

 ですが、もしこのような存在でありながら人間を脅かす程の戦力を持たず、理性と恐怖心をもつ存在がいきなり人間の社会に放られたらどうでしょう。人間に素性や正体がばれないようにただただ怯えるのではないでしょうか。もし人間に見つかれば無事では済まないのは言うまでもなく、殺されるかもしれないし、解剖されるかもしれないし、地獄のように苦しい実験につき合わせられ続けるかもしれません。

 もう一つ例を挙げます。「正義のヒーロー」は人々を悪の存在から守るために戦いますよね。正義のヒーローは人々の平和のために戦うのであって決して自分の為ではありません。自己中心的な行動に出ることはありません。

 ですが、正義のヒーローだろうと、人間であれば少なからずどこか自己中心的な側面を持つはずです(人外のヒーローであれば、それはそれで前述の人間の脅威と相反しますが)。時にはヒーローが自己中心的な面やエゴが出る面があっても不思議ではないのではないでしょうか。

 このように、多くの人がある言葉や概念について持っている印象とは異なる演出や展開をしやすいのが自主制作アニメの醍醐味です。そしてもちろん、これは自主制作アニメに留まらず自主制作の創作全般にも言えることですし、なんなら自主制作ではない創作についても同様です。

 

3. 最後に

 今回は前回の記事の第二項について、具体例を挙げて詳しく説明するという内容でした。上にあげた例はほんの一例でしかなく、他の場合も山ほどあります。「朝焼け」「朝日」「夜明け」などの言葉は希望のイメージで取られがちですが、あえて絶望として描き「明けて欲しくない夜も明けてしまう」というような描写をすることもできます。そして、こういう演出や展開があるかどうかを前回の記事で述べた「解釈」によって分析をすることで、また自主制作アニメの見え方が変わってくるのではないでしょうか。

自主制作アニメについて考えていること

 はじめまして。Cと名乗る怪しい者です。

 

 この文章はあくまで自分の考えを文章化しただけのものであって、他の考えを否定したり批判したりする意図は一切ありません。

 

0.自主制作アニメとは

 本題に入る前に、まずこの文章で指す自主製作アニメは何かということを話します。

自主制作アニメというのは個人もしくは少人数で制作されたアニメーション全般を差すもので、厳密な定義によって定められたものではないです。具体的に制作人数何人以下だとかいう基準はありません。

 

1.制作側の現実

 自主制作アニメは前述のとおり、少ない人数で作画をしています。なので、基本的に作業量や予算の関係からアニメーションの尺には限界があります。ほとんどが数十秒~数分の尺で、十分あれば長い方、三十分もあればかなりの大作だと思います。中には一時間を超えるようなとんでもない大作もありますが、ごく稀です。

 自主制作アニメはTVアニメや自主制作ではない劇場版アニメと比べ、尺が短い傾向があり、その結果、限られた時間の中に作者が伝えたいことや描きたいことが詰め込まれることになります。なので、作者の描きたいことの内容が濃くなりやすく、作品自体が濃い内容になる反面、展開が早くなったり、物語のつくり全体が粗くなったりして、そもそも描きたいことが鑑賞者に伝わりづらくなりやすいことを意味します。

これを防ぐため、多くの場合は構想していた内容や演出の一部を削ることを余儀なくされ、描きたいもの一切全てを作品に込めることは難しいのが現実です。

 

2.自主制作アニメの醍醐味

 前項で述べた通り、自主制作アニメは制作人数が少ないので、作者が伝えたいことや描きたいことが薄まりにくい傾向があります。この伝えたいことや描きたいことは、ストーリーだけには留まりません。作者の個性は作画や構図、演出などにも渡り、作者という表現者が作品という鏡に映し出されます。

 私はここが自主制作アニメの醍醐味なのではないかと考えます。

 普通では企画が通らないような内容でも、どんな自己満足な内容でも、自分がGOサインを出せば止められることはありません。公開する場合の権利的なものを除き、基本的に何を描いても許されます。

 熱い戦い、恋愛、平和な日常、人間と人外の友情、ギャグといったよくある物から、人間とはなにか、自分とは何か、世間への皮肉や世論へのアンチテーゼ、特定の作品への個人的なアンサー、あるいはフェティシズム性的嗜好、異常心理と言ったものまで描かれる場合があります。基本的に表現の制約がないので、汚さや醜さといった人を選ぶ表現も入れることができます。

 作者の制作目的にもよりますが、基本的に万人受けを狙いに行く必要はありません。たとえ物語の結末が、大衆が望むようなものでなくでも、作者が描きたかったものであればそれでいいのです。自主制作でないアニメが万人受けを狙わなければならない訳ではありませんが、自主制作アニメは自主制作でないアニメよりこの点において制約が緩いです。

 本来、人間を脅かすように描かれる存在が人間に怯え自分を殺し続けても、正義のヒーローが最後にエゴを見せて目の前の幸せに目が眩んでも良いのです。固定観念や先入観なんかただの幻です。ヒーローだって人間であれば利他と利己の両方を持って当然です。

 描きたいものを個人や少人数で自由に描くことで、作者の個性や思想、好みが全面に作品に映りやすくなり、これが作品の味になります。

 

3.「解釈」を通じて見る、作者という表現者

 また、このような創作をする人は小さい時から何かしらの創作をしている人が多いです。過去にアニメーションに限らず、小説や漫画などの作品を過去に作っていたり、完成とまで行かなくても作品の構想があったりする場合が多いです。

 作者が過去に創作をしていた場合、一つの自主制作アニメに、過去の作品や完成できなかった構想が活きているかもしれません。過去の何個のも創作が今の作品を支えているかもしれません。そのように考えると、自主制作アニメを通じて、作者という表現者を見ることができるのです。

 また、作品を個人や少人数で制作している以上、無意識の癖が出やすい傾向にあります。この癖を分析することで、作者自身も気づいていないものに気づけるかもしれません。この分析する行為を私は便宜的に「解釈」と呼んでいます。

 よく、作品の設定やストーリーについて「考察」する方はいますが、「解釈」をする人はほとんどいません。「考察」は作品への理解を深くし作品を楽しむ行為ですが、「解釈」は「考察」だけでなく作品の傾向や演出の癖を分析し作者を知ろうとする行為です。例えば、同じ構図や近い構図のシーンに同じ音楽を使っていないか、同じ台詞の後の台詞を比較して何がどう違うか、同じような状況のシーンでも登場人物の心理変化の描写がどうなされているか、というようなことを分析します、「解釈」をすることで作者という表現者を見ることができるかもしれません。

 

4.最後に

 今回は自分が今まで自主制作アニメに対して今まで考えてきたことを言語化することが当初の目的でした。折角なのでこうやって投稿しましたが、他人に読まれることを想定していなかったので読みづらかったかもしれませんがそこはご容赦して頂けると助かります。もしコメントがあれば嬉しいです。